昨今のニュースでアフガニスタンにてタリバン組織が政権を握った、うんぬんかんぬんと言っているが、大半の人が

ん?うん…??タリバン??ふ~ん・・・
となっているだろう。
タリバン組織について、ぴよぴーよ速報をオマージュする形で解説していこうと思う
始まりは冷戦時代のソ連によるアフガニスタン侵攻
このゴチャゴチャしたやりとりの始まりは今から約半世紀前
まだロシアの地にソビエト連邦があった頃

当時、アメリカとソ連が世界の覇権をどちらが握るかのイザコザをしていた時、冷戦と言われる時代

ソ連は言いました。

あ~ちょっと、アフガニスタン味方になってくれねーし、ボコしとくか
当時、ソ連はこれだけのドデカい面積があった為👇

「ウチの家デカすぎて自分だけで敷地守れねーよ」的なノリで、隣の国に警備してもらう感じでやってました。

そんな中、ソ連のお隣であるところのアフガニスタンが言いました

マジ、ソ連嫌いだわ~、宗教禁止とか言ってくるし、イスラム教なめんなよ
そんな感じの理由で、ソ連は仲が悪くなっていたアフガニスタンの地に喧嘩(戦争)を仕掛けてきました。

それを見ていたアメリカは言いました。

パキスタンから武器を送り込んで、ソ連を疲れさせるぞ!!
アメリカは、ソ連の侵攻を止めたい思惑があったんですが
ちょっと前に戦争で地獄にしてしまったベトナム戦争で敗北し
国民からも戦争反対の声が強く、直でアフガニスタンへの援助は非常にやりにくく、
そこでアメリカはアフガニスタンの隣であるパキスタン経由で武器を送り、アフガニスタンの後方支援的な感じでサポートしてました。

その後アメリカの目論見通りにソ連がアフガニスタン侵攻した結果、バカみたいな費用がかかり、ソ連崩壊を早める事となりました。

タリバンの誕生
ソ連のアフガニスタン侵攻が終わり、荒れ放題でアメリカからも放置されたアフガニスタンの地にはさまざまな民族が取り残され、このさまざまな民族がこう言いました

アフガニスタンは俺たちのモンだ!!
誰も居なくなったアフガニスタンの地に、俺たちのモノだと主張する民族たちがぐちゃぐちゃに戦争をおっぱじめました。
これがアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)です。
それを隣で見ていたパキスタンが言いました。

ちょ、アフガニスタンがインドの味方になったらやべーな・・・イスラム系の国に作り変えるぞ!!
パキスタンはインドと超仲が悪く、アフガニスタンがインドの仲間になると挟み撃ちに合いそうだったので
それを阻止すべく、イスラム系の国にしようとアフガニスタンのイザコザ(紛争)に参加しました

紛争に参加したパキスタンは言いました。

あの~難民の皆さん、イスラムの教えってスゲーんですよ!一緒に武力でイスラムの教えを広めませんか??
紛争状態になったアフガニスタンは難民キャンプがたくさんでき、そこには若者がたくさん居ました。👩🏿🤝👩🏿👩🏾🤝👩🏾👩🏿🤝🧑🏾👨🏿🤝👨🏿

その中でパキスタンは、イスラムの教えをかなり捻じ曲げて過激派をつくるという流行りで、そうやって育てられた若者を
「タリバン」と言いいます。

タリバンとはアラブ語で「学生」と言う意味らしいです。
そんな感じの若気の至りで集まっちゃった団体タリバンは1つの勢力となり政権をつくるほどまで規模がデカくなり、
結果としてアフガニスタン紛争 (1989年-2001年)を抑えることが出来ました。
超重要人物・熱心なイスラム信者ビンラディン
話を少し戻して、 アフガニスタンがソ連と仲が悪くなって喧嘩(戦争)をおっぱじめた頃、ビンラディンが現れました。

ビンラディンは言いました。

ソ連からアフガニスタンを守るぞ!!
ビンラディンはサウジアラビアの御曹司(いいとこの坊ちゃん)で熱心なイスラム教徒でした。

ビンラディンはすでに2011年5月2日にアメリカ軍に殺害されていますが、タリバンはビンラディンが大きく関わっていて
ソ連がアフガニスタンへ侵攻する中で、😠「イスラム教の教えを守るために!!」とアフガニスタン勢力に加勢した人物としてビンラディンが居ました。

ソ連がアフガニスタンから撤退後、ビンラディンはサウジアラビアへ帰ると、
故郷であるサウジアラビアがアメリカとの関係を強める協定を結び、反対したビンラディンはサウジアラビアから追放され、
ビンラディンは😡「メッチャ、アメリカが気に食わんっ!!」的な事を思いながらサウジアラビアから追放されました。

アフリカのスーダンへ行きますが親分的なアメリカからの圧力がかかり、また追放されました。
すると、今度はアフガニスタンへ逃亡しました。

テロを実行するビンラディン、報復するアメリカ
当時、タリバン政権が掌握していたアフガニスタンに匿ってもらい、
アメリカに復讐する為、飛行機をハイジャック✈️、世界貿易センターへ激突するという前代未聞の超大規模のテロを実行しました。

このテロを受けたアメリカはアフガニスタンに言いました。

テメ、何してくれんじゃ!!ビンラディンを匿うならボコしてやるわ!!
その後アメリカ軍から追われる形でビンラディンは逃亡、ビンラディンを匿ったとしてアメリカはアフガニスタンを空爆しました。

その結果、タリバン政権がほぼ崩壊、ビンラディンはパキスタンで2011年5月2日に発見され殺害。しかし、タリバンはチリジリに分かれ中東各地に逃亡しました。
撤退したアメリカを見て武力で政権を乗っ取るタリバン
崩壊したアフガニスタンに新しく民主主義政権を立てようとアメリカがゴリゴリに支援をしたんですが


いや~・・・信じられねぇくらい国作んのに金かかるわー
アフガニスタン駐留に使った予算は約220兆円と鬼のように費用がかかりまくり、するとアメリカは言いました。

もう支援無理っすわ、撤退します。
アフガニスタンに駐在したアメリカ軍はバイデン政権にて正式に撤退を決め、いつの間にか力を付けていたタリバンがそのことを聞きつけ、タリバンは言いました。

今だっ!!アメリカが支援した現政権をボコすぞ!!
2021年にタリバンがこの政権をボコし、政権を掌握したという状況になりました。
というのが今日までのあらすじだ
こんな感じで半世紀近くにわたって今も続くゴタゴタが世界に影響を及ぼしているのが現状と言うワケです。

いや~しかし、キリスト教とイスラム教の仲直り瞬間は今後何十年も無さそうな雰囲気しかないのはチョット・・・平和は遠そうですな
ではまた❗😃👍
それと他にも「イスラム国の成り立ち」について解説した記事もあるので🙇♂️良かったらそっちも見てください👇
補足情報
ビンラディン年譜

- 1979年、アフガニスタンのソビエト軍と戦うためにアブドゥッラー・アッザームの呼びかけに応じパキスタン入りし、ムジャーヒディーンの1人となる。
- 1988年、マクタブ・アル=ヒダマトが分裂。ペシャーワルでアルカーイダを組織。
- 1990年、アフガニスタンの英雄としてサウジアラビアに帰国。
- 1991年、湾岸戦争で、異教徒のアメリカ軍の介入や聖地メッカのあるサウジアラビアへのアメリカ軍駐留に反発し、スルターン・ビン・アブドゥルアズィーズ・アル=サウード王子に交渉するも拒否され、反サウード家を鮮明にする。
- 1992年、サウジアラビア国籍剥奪。国外追放され、スーダンに身を寄せる。スーダンで建築事業を営みインフラ整備に携わる。アルカーイダの組織はこの時期この地で大幅に拡大され、国際的なネットワークが繋がり、「イスラムの教えに反する者全てに聖なる戦いを仕掛けよ」と呼びかけた。
- 1996年、アフガニスタンに移動しイスラム原理主義勢力ターリバーンに客人として扱われる。豊富な資金力でアルカーイダの基地を作り、テロ訓練を行う。
- 1998年、ユダヤ・十字軍に対する聖戦のための国際イスラム戦線結成。「アメリカと同盟国の国民を殺害せよ」というファトワをアイマン・ザワーヒリーと連名で出す。アメリカ大使館爆破事件。スーダンの化学工場とアフガニスタンの訓練キャンプがアメリカ軍のミサイル攻撃を受ける。
- 1999年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1267でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2000年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1333でビン・ラーディンとアル・カーイダの引き渡しを要求。ターリバーンは拒否。
- 2001年秋、アル・カーイダのメンバーであるモハメド・アタ他数名による9.11アメリカ同時多発テロ事件発生。ブッシュ政権にアメリカ同時多発テロ事件の首謀者と断定され、ターリバーンに身柄の引渡し要求がつきつけられたが、ターリバーンはこれを拒否した。
- ターリバーン政権崩壊後は消息不明だが、アフガニスタンとパキスタンの国境山岳地帯に潜伏していると推定されており、パキスタン軍の掃討作戦に包囲されているとの情報も流れた。
- 2002年、国際連合安全保障理事会、国際連合安全保障理事会決議1390でビン・ラーディンとアル・カーイダ関係者およびターリバーン幹部の資産凍結を決定。
- 2004年2月28日、イラン・イスラム共和国放送のパシュトゥーン人向けラジオ放送が、パキスタン国境付近でパキスタン軍が”だいぶ前に”ビン・ラーディンを拘束したとのニュースを伝えたが、AP通信/ロイターによると、パキスタン外相、アメリカ国防総省はこの情報を否定した。
- 2004年10月29日、カタールの衛星テレビ局アルジャジーラが、その頃撮影されたといわれるウサーマの映像を放映。この中で、ウサーマと思しき男はアメリカ同時多発テロ事件を行ったことを初めて認め、更なるテロを警告した。これに対し、ブッシュ大統領は「脅しに屈しない」と強調した。
- 2005年10月に発生したパキスタン地震によりアメリカ諜報部が彼の消息が絶ったとし、更には人工透析の電子機器が常に必要でありながらも地震により電力が止まっているなどの情報もあるため、ドイツの新聞がビン・ラーディン死亡説を報道した。
- 2007年1月31日、米CNNはアラブ首長国連邦のドバイにて、ウサーマの義理の兄弟がマダガスカルで武装グループの襲撃を受け射殺されたことを明らかにした。被害者の兄弟がUAEの衛星テレビアル・アラビーヤに語った。
- 2011年5月2日、パキスタンのアボッターバードで米軍によって射殺される。
アメリカ同時多発テロ事件

アメリカ同時多発テロ事件(アメリカどうじたはつテロ事件、略称:9/11)は、2001年9月11日(火)の朝、イスラーム過激派テロリスト集団アルカイダによって行われた、アメリカ合衆国に対する4回の協調テロ攻撃である。9・11テロ事件とも呼ばれる。
この攻撃によって2,977人が死亡、25,000人以上が負傷し、長期にわたる健康被害に加えて、少なくとも100億ドルのインフラ・財産の損害が発生した。消防士と法執行官の犠牲者はそれぞれ343人と72人で、アメリカ史上最悪のテロ事件となった。またこの事件を契機としてアフガニスタン紛争が勃発した。
アフガニスタン紛争
アフガニスタン紛争とは1978年以降、断続的に起こっている戦いを言う👇
1978〜1989年
詳細は「アフガニスタン紛争 (1978年-1989年)」を参照1978年に発生したアフガニスタン人民民主党政府に対する武装蜂起、さらに1979年に発生したソビエト連邦のアフガニスタン侵攻、政府軍・ソビエト連邦軍とそれに対するムジャーヒディーンの戦闘。
1989〜2001年
詳細は「アフガニスタン紛争 (1989年-2001年)」を参照1989年のソ連軍撤退後のムジャーヒディーンや軍閥による内戦。その中でターリバーンが勢力を伸ばし1996年9月に首都カブールを占領、アフガニスタン・イスラム首長国を樹立した。
2001年〜
詳細は「アフガニスタン紛争 (2001年-)」を参照2001年に発生したアメリカ合衆国および有志連合諸国と北部同盟によるターリバーン政府打倒のための攻撃、そして北部同盟が樹立したアフガニスタン・イスラム共和国政府およびISAF(国際治安支援部隊)および有志連合諸国とターリバーンおよびヘクマティヤール派などの武装組織の抗争。ターリバーン勢力はパキスタン連邦直轄部族地域に浸透し、パキスタン国内でも戦闘を行っている(ワジリスタン紛争)。2014年12月末に有志連合および北大西洋条約機構(NATO)主導の対テロ戦争の不朽の自由作戦が終了し、自由の番人作戦へ移行した。
2021年5月よりアメリカ合衆国駐留軍が撤退を開始すると、ターリバーンはアフガニスタン・イスラム共和国政府の支配地域を次々と制圧し、8月15日に首都カブールを占領した。これによりアフガニスタン・イスラム共和国は事実上崩壊し、ターリバーン政権が再度樹立された(2021年ターリバーン攻勢)。
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